少女と老人
(前編)
「今月も駄目だわ…」
女は深いため息をついた。
父の反対を押し切って、恋した男と駆け落ち結婚をし、ブルー惑星海へ逃亡をつづけた。
数年後にようやく住むべくところが見つかり、子供も2人を持つようになった。
しかし、2人目の子供を産んで間もない頃に、父が特赦で刑務所から釈放され、身元引受人と指名された時から生活が一変した。
まるで腫れ物を触るように、父を気遣いながら生活をしなければならなかった。
かつて悪行の限りを尽くした父は、今になっては当時の面影もなく、ただの落ちぶれた老人になっている。
写真を見つめながら、なにやらブツブツと呟く。そんな父の姿を見ると苛々する。
ただでなくても夫の稼ぎだけでは生活していくのが苦しいので、自分も近くのスーパーで働くようになったが、それでも生活が楽になれない。
1人目は現在小学校の1年生になっているが、2人目が来年の9月に小学校の入学を控えている。
国公立であるため、授業料や教科書代や筆記具代は無償なので心配ない。しかし、子供の教育費はこれから年々増えていく。
家のローンもあと30年ぐらい払いつづかなければならないし、車のローンも馬鹿にならない。おまけに父が糖尿病で患っており、足の動きがおぼつかない。
3ヶ月前に一家心中をした隣家の二の舞にならないように一生懸命努力しても、いつか音を上げる日がくる。
あの時、父を引き取ったのが失敗だと信じて疑わない女は、父を責めるようになった。
いくら父を責めても、取り返せない過去にこだわってもしょうがないことはわかっている。頭でわかっていても、感情はどうすることはできない。
この人のおかげで自分の人生が滅茶苦茶だ―。
西暦2930年、ブルー惑星海主星、アメリカフロリダ州マイアミ―。
リゾートホテルのカジノで、ブルース・カール・バーンステインは3人のギャンブラーを相手に、ポーカーを興じている。
かつて太陽系を影で支配した『ブラディ・シンジケート』を相手に、太陽系標準時にして、365日以内に太陽系50個の惑星を全て回り切る賭けに挑み、勝利をつかんだ英雄も、今では41歳になっている。
ICのように頭が切れるその頭脳は、年齢と共に衰えるどころか、さらに冴え渡っている。
人間の脳細胞は、20歳をピークに少しずつ死滅してしまうが、頭脳をよく働かせ、神経ネットワークを繋いでおけば、問題はない。
地球の某名門大学の客員教授を務めている彼にとって、ギャンブルはほんの息抜きに過ぎない。
「やめた!」
ギャンブラーの1人がゲームを放棄する。
「俺も。もうつきあいきれないよ…」
2人目もゲームを放棄した。
「貴方は?」
ブルースがもう1人に声をかけると、
「コール」
男がカードを見せる。2と3のフルハウスだった。
その後、ブルースがカードを見せる。
9のフォーカードだった。
観客たちが一斉に驚きの声を上げる。
「負けたよ、流石はI・C・ブルース。頭脳の冴えは伊達じゃない…」
「ありがとう」
ブルースがチップをウェイターに投げて、
「ここにいる方々に、何か冷たいものを」
「かしこまりました」
ブルースは満足そうにこれまで稼いだチップを換金する準備をはじめた。
「どうだい、ブルース?また勝ったか?」
ブルースが振り返ると、くすんだ金髪のアフロヘアーの男が立っていた。
ロック・アンロック。ブラディに命を狙われはじめたブルースを助けたことから、そのまま仲間に加わった『抜き打ちロック』の通称を持つ男である。そんなロックも今では37歳になっている。
父や父の部下を襲撃した強盗団とその強盗団を逃がした殺し屋を葬り去った後、故郷である地球のカナダに帰国し、ハイスクールを復学して1年後に卒業。そのまま森林警備隊に入隊し、4年前に隊長に昇進した。
「ああ、5億ボールは軽く稼いだ」
「相変わらずだな。初老を迎えても、その頭の冴えは衰えを知らないな」
「よしてくれ。人間は平等に年を取るんだ。いつかは引退しなければならない時がくる」
「それはナディアが成人になればの話なんだろう?」
ブルースには、娘が存在している。
名前は野島
16年前、親が勝手に決めた許婚と結婚する前までにつきあっていた女性との間に生まれたいわゆる隠し子で、もちろん認知している。(注1)
ロックたちは凪砂のことを『ナディア』と呼んでいる。
日本語を理解できているブルースには何の問題はないが、全く理解できていないロックたちが『ナギサ』と呼ぶと舌が回らないということで、バーディの父でノンフィクション作家のヴィンセント・ショウから『ナディア』とつけたことから、ずっとその通称で呼ばれるようになっている。
今のところ、凪砂の他にブルースの隠し子の存在がいないため、野島家だけではなく、バーンステイン家の跡を継ぐことができるのは、彼女だけである。
一緒に暮らしていないが、夏休みや冬休みなどのまとまった日に会うことになっている。
「あの子はまだ16。そう簡単に引退するわけにはいかない。ただ…」
「ただ?」
「自分の体が自分の思い通りにならない時がいつかくる。私とて人の子だ。いつかは…いつかはその時がくる…」
「その時はその時さ、ブルース」
ロックがポンとブルースの肩に手を置くと、
「人生は長いんだ。これからのことはこれからで考えればいいんじゃないか?」
「そうよ、今の段階でしょげてばかりじゃ、せっかくのICが錆びてしまうじゃないの?」
バーディ・ショウ・アンロックが2人の前に現れた。
気まぐれバーディの通称を持つ彼女は、太陽系一周トライ後、モデルの仕事や映画出演の仕事が舞い込んだが、全て断って、相変わらず気ままに遊んでいたが、25歳でロックと結婚し、2人の息子を持つようになり、今では育児に忙しい日々を送っている。
「そうだったな、ロックにバーディ」
「YEAH!」
ロックとバーディが親指を上に立ててから、そのまま下に向ける。ロックたちがいつもするポーズのひとつである。
18年経っても、そのポーズを忘れていないロックとバーディである。
「えぇと、お米に海苔に、野菜に魚介類、でも、お父さんはイクラが駄目だから…」
電動スクーターに乗りながら、少女は夕食の材料を考えている。
くせのある漆黒の髪をポニーテールに結い上げ、透き通る白い肌に黒い瞳をしており、コーカソイド特有の彫りの深い顔立ちをしているのか、見た目は大人っぽい。
考えながら公園を通り過ぎようとしたその時、
「おうおう、じっちゃんよ。金は持っているだろう?金は…」
1人の老人が3人の男たちに絡まれている。
男たちは老人に金をせがんでいる。老人は無抵抗のままである。
老人が金を持っていないことを知ると、男たちは老人を突き飛ばして、蹴りを入れようとする。
トントン!
少女が電動スクーターから降りて、男の肩を叩く。男が振り向くと、少女がニッコリ笑いながら手を振った。
「ふざけやがって…」
男が少女に襲いかかる。少女が相手の拳をかわしながら、そのまま投げ飛ばす。
他の男たちが少女に襲いかかる。少女が水のように攻撃をかわしながら、そのまま投げ飛ばす。
「無力なお年寄りを虐めるのは感心できませんね」
「くそ…、小娘の分際で…」
男がナイフをちらつかせて、少女に襲いかかる。
少女がスッとかわしてから、相手の足を引っ掛け、胸元をつかんでから、他の男たちを倒すように投げた。
「これ以上怪我したくありませんから、やめません?」
男たちが青くなりながら一目散に逃げていった。
「あの、お爺さん…」
少女がうずくまっている老人を起こすと、
「大丈夫ですか?」
「儂は大丈夫だ…。それより何故こんな老いぼれを助けたんだ?」
「私は困っている方を放っておけません。お節介かも知れませんが…」
「いやいや、それより助けてくれてありがとう」
老人をベンチに座らせて、少女はバニティバッグから消毒液とガーゼを取り出して、手当てをする。
手当てを受けながら、老人は少女の勇気と親切に強い関心を持った。
「君は本当に人を助けるのが好きなんだな?」
「放っておけないんです。悲しみに暮れて泣く人間は、私の母で十分ですから…」
少女は自分のことを話しはじめる。
「私は世間では知られてはいけない子なんです」
「それはどうしてかね?」
「ある事情があって、父と離れて暮らしていますが、夏休みや冬休みなどのまとまった日に会うことにしていますし、メール交換や電話もしています」
「母親はどうしているかね?」
「母は1年前に、外宇宙系の子宮ガンの末期で亡くなりました。生まれ育った家で、父に看取られながら。私は今でも母を尊敬しています」
「儂の娘もそうだった。娘の他に世間では知られてはいけない子供が多くいるが、儂にとって愛しい子供はその娘だけなんだ。娘は嫌っているが…」
「そんなことはありません。この世に愛し愛されない親は何処にもおりません。例えどんなひどい親でも」
「ありがとう、君はなんて心が広い」
「母からこう言いました。『この世に完璧な人間はいない』と」
「君の母親も心が広い人だったな…」
老人が空を見上げながら、自分の過去を話しはじめた。
「儂はかつて悪いことをしてきた。ストリートギャングで育った儂は、地球を拠点にして、血で血を洗うことを繰り返してきた。ある事件を境に、儂は暗黒街の帝王へ伸し上がり、太陽系を影で支配をしつづけた。だが、ある若者との賭けに敗れて、表舞台から降りてしまった」
「私はそんな悪いお爺さんには見えませんが…」
「儂のような見ず知らずの老いぼれの身の上話など、退屈かい?」
老人の質問に、少女は首を横に振った。
「儂がかつて悪い人間だったとしても?」
少女は首を横に振った。
「君は本当に心が広いんだな…」
「私は弁護士になる夢を持っています。両親の生き方から見て、こう学びました。『例え一匹の虫を殺さず、一輪の花を摘み取らずに、一生を終えられる人間はこの世には存在しない。人間は神ではないのだから。だからどんな善人でもわずかな悪業は心ならずも犯してしまうもの』だと。どんな悪人だって、わずかな良心があるはず。私はその良心を信じたい」
「だから君は弁護士になりたいというのか?」
「はい…」
「君のような心が広い人間なら、弁護士になれるのもそう遠くはない。どんなことがあっても『夢』は諦めてはいかん。儂のような老いぼれがまだ生きていけるのはその『夢』のおかげなんだ。ところで君の父親は…?」
「それは…」
少女が次の言葉を口にしようとしたその時、
♪ジャジャジャーン…(『銀河疾風サスライガー』のオープニングのイントロの着メロで)
携帯電話が振動と共に鳴り出し、少女が慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし…、あっ、お父さん?今ですか?公園…。え?今スーパーにいらっしゃるの?わかりました。今すぐ…」
少女が携帯電話の終了ボタンを押すと、
「ごめんなさい、お爺さん。父から呼び出されて。私はこの辺で失礼します」
「いいんだよ、行っておいで。儂はいつもこの公園にいる。いつでも遊びにおいで」
「その時、お弁当を持ってきても構いませんか?」
「もちろんだとも」
「それではまた…」
少女が親指を上に向けて「YEAH!」と言ってから、下を向けた。
老人はハッとした。
以前から気になっていたが、この少女は誰かに似ていると。顔は覚えているが、名前は思い出せない。
ブルースがため息をつきながら携帯電話の終了ボタンを押すと、
「予想外なことに弱いところもあんたにそっくりだな、ブルース」
ロックが肩を叩いた。
「そんなに似ているのか、凪砂は?」
「親子だからしょうがないでしょう、ブルース?」
バーディから声をかけられると、ブルースが「そうかな?」と訊いた。
夜7時、老人がとぼとぼと家にもどると、娘からの金切り声が聞こえた。
「お父さん!夕食前には帰ってきてって、あんなに言ったでしょ!」
娘の第一声はいつもこの調子である。
いつから娘がこんなに怒ってばかりになったのか―?
きっと昔から、自分を快く思っていなかったかもしれない―。
自室に入ると、孫たちが様子を伺っている。
老人が手招きをすると、孫たちが無邪気な声で、
「いつ死ぬの?」
と口を開いた。
「ママが言っていたんだ。おじいちゃんが死んだら僕とお姉ちゃんの部屋、別々にしてくれるって…」
「おじいちゃん、いつ死ぬの?」
孫たちまでも自分の存在を快く思ってくれない―。
老人はショックを受けた。
娘だけではなく、孫たちまでも―。
「お母さんに『今日はおじいちゃん、晩ご飯は欲しくありません』と伝えてくれないかな?おじいちゃん、具合が悪いから早く寝るってな」
「うん!」
孫たちが部屋を出ると、老人が懐から写真を取り出して、
「あと『ひとつ』だ。あと『ひとつ』で、お前のところへ行ける…」
涙を流しながら呟いた。
「ほぉ…、お年寄りを助けたのか?」
ブルースがオレンジピコを口に含んでから、娘と会話をしている。
「ちょっとお節介かしら?」
「いや。困った人を放っておけない性格は、母親に似ているな…」
ブルースと娘が会話をしている周辺には、ロックたちがベランダでバーベキューを食べている。
ここはブルースの別荘で、ベランダからマイアミビーチを見下ろすことができる。
今は冬休みの真っ只中。ロックとバーディは2人の息子を連れて、ブルースの別荘で遊びに来ている。
遊びに来ているのはロックたち一家だけではない。
ジミーとスージー夫妻やビートとプチ・ロッジ夫妻も来ている。
ブルースの挑戦に共感して仲間になったビートとソーラー・プラネッツ・ポスト社の特派員として追いかけつづけたプチ・ロッジも、10年前に結婚しているが、お互いの仕事を尊重して、あえて子供を作っていない。
アステロイドから駆け落ちしてきたジミーとスージーも太陽系一周トライ後に結婚し、子供が3人も持つようになった。
ロックたちが笑顔を振りまきながら夕食を楽しんでいる時、ブルースは娘の凪砂とオレンジピコを飲みながらチェスをしている。
「お爺さん、昔は悪いことをしてきたと仰ったけど、私はそう見えませんでした」
凪砂がそう言いながら駒を動かす。
ブルースがそうきたかと感心しながら、
「きっと私たちと何か、縁がありそうだな、そのお爺さんは…」
「どうしてそう言えますか?」
「私と同じ名前を持った御先祖の1人(注2)がこう遺していた。『この世に偶然はない。あるのは必然だけ』だと」
「じゃ、私がお爺さんと会ったのも、これもまた必然ですか?」
凪砂が次の駒を動かすと、
「凪砂、人間は『ひとり』で生きているわけではない。この世界には数多くの『他人』が存在している。私と君とて、例え血が繋がっていようが、『親子』という関係性以外は、みんな『他人』同士。大切なのは、その『他人』を自分の中に受け入れることだ」
「例えどんな小さな出来事でも?」
「ああ」
「例え本人が忘れていても?」
「もちろん…」
ブルースが駒を手にして、
「チェック!」
しかし、凪砂は「かかりましたね」と駒を手にして、
「チェック・メイト」
「あ…(-_-;)」
ブルースは青ざめた。
その様子をロックたちが集まると、
「ICの頭脳を持つあんたも負けることがあるんだな、ブルース?」
ビートが驚きながら口笛を吹くと、
「私とて人の子だ」
ブルースがそう言いながら駒を直して、
「今度は手加減しないよ…」
「そちらこそ…」
凪砂がニヤリと笑みを浮かんだ。
「あ〜あ、これだから頭のいい奴同士の勝負は退屈だから困るんだよ…」
ビートがぼやきながらベランダへ向かおうとすると、
「それほどナディアの頭が父親に近づいてきたんだ」
ロックがビートの肩に手を置きながら、「YEAH!」と親指を上に向けた。
ブルースの別荘でのホームパーティは夜遅くまで行われていた。
注1…ブルースの結婚生活はわずか2年で終止符が打たれている。もともと親が勝手に決めた結婚だったため、夫婦仲は既に冷めていた。離婚調停が成立した後は再婚していない。
注2…ブルースと同じ名前を持った先祖の1人との血は直接繋がっていない。何故なら2011年に弱冠26歳でこの世を去っており、子供はできていなかったため、彼の妹がバーンステイン家の血脈を残していた。